輝いているあの人に聞く目からウロコのストーリー

佐枝せつこの「ゲストルーム」
 

第4回のゲスト
命懸けの発明に挑む!国際創造学者 
Sir・ドクター・中松

悪性がんで余命を宣告されたらあなたたならどうするだろうか?

私ドクター・中松は、専門医から悪性がんで余命2年と宣告さ れたことを告知します。
余命2年とは、来年(平成27年)年末迄です。


6月26日、ドクター・中松(Sir・中松義郎博士)は、86歳の誕生日に特別記者会見を開いた。内容は専門医から悪性ガンで余命2年と宣告されたことというものだった。
その翌月、私は博士のご講演を拝聴するために上京した。車椅子での移動ではあったが、お肌の艶もよく凛としたお姿は余命2年を宣告された人には見えなかった。

  

――告知を受けられたときの心境は?

大変なショックです。2005年、私はハーバード大学でIgノーベル賞を受賞しましたが、その論文に適切に健康に留意すれば人の寿命は最大144才迄可能という研究成果を書いた程、私は健康に留意していました。

多くの老人男子がなりやすい前立腺がんについては何時も警戒し、PSA検査も行い正常値であったから、この診断結果は晴天の霹靂でした。「導管がん」はPSA値が低く出るので発見し難く手遅れになるそうです。

――がんはどのように発見されたのですか?
昨年12月末にアメリカから帰国し、別の件で近所の病院に検査入院した際に、念のため生検をしたところグリソンスコア4+4=8という顔つきが悪い(悪性)がんで、つまり、がん末期という驚くべき結果を知らされたのです。 しかし、私はたんたんと都知事選を行いました。

都知事選後直ちに、前立腺研究で五本の指の一人に入る著名専門医のT病院のS医師に、前記の近くの病院で採った生検プレパラートを顕微鏡下で入念にチェックして頂きました。

この専門医はさらに自ら直接指を私の体内に入れてがん塊を確認されました。そして絶望的な「導管がん」の診断を私に告げたのです。「導管がん」は前立腺がん百人に一人と非常に例が少なく、その治療法は、まだ見つかっていない「難病」と説明を受けました。


その後、博士はがん対策に奔走するも解決策を見つけることはできなかった。

 

―――なぜ告知をされたのですか?
先般、作家JW氏が私と同じ前立腺がんで死亡したことが死後報じられたことです。最後の誕生会でも「車椅子ではおしのびで遊べない」と言うにとどめていました。これを見て私は「私の誕生会に告知し、世のため人のためにこれから何をやるかを告知しよう」と思ったのです。

博士は世界中の誰も考えていない治療法をそれこそ命懸けで発明することを決意したという。

ゲストルームには毎回輝いている人をお迎えしている。余命を宣告されたにも関わらず、博士の瞳はキラキラ輝いていたのだ。すでに博士は今後の生き方を決めておられた。

「私の2年でつきると言われた余命、つまり来年年末までに何をなすべきかを考えました。そして次の5大目標を定めました」

1、がん撲滅運動と新治療法の発明をする。
今まで治療法がわからなかった「導管がん」の新治療法の発明を私自身のためにも、他の死を待つしかない人々のためにも発明する。

2、福島原発自己による放射能問題を解決する発明(新エネルギーの発明を含む)をする。

3、現在ビッグデータ時代における問題点「大ストレージとリトリーバルの発明」をする。

4、次世代乗り物の発明をする。

5、後世への発明法の伝授と発信をする。


あまりにすごすぎる!目標だ。
アメリカのコロラド州など20都市ではドクター・中松デーが制定されているのに、日本ではドクター・中松の偉大さが正確に伝わっていない気がしてならない。国際的な著名人が暮らすには、日本という国の器が小さすぎるのではないだろうか。

ドクター・中松にお会いするといったときに、たくさんの人たちからぜひ聞いてほしいとい頼まれたことがある。

――なぜ選挙に出られるのでしょうか?
「スイスで終戦交渉を行った、藤村義朗中佐の遺言があるからです」


藤村中佐とは日米和平工作をした歴史秘話の主人公。気になる方は詳しく調べていただきたいが、中佐は終戦後の日本をよくするにはどうすればいいのかを常に考え実践している人だった。同じ志を持つ博士のことは弟のように思い、親しいお付き合いをされていた。

そんな中佐が死の間際「総理になって今の日本を建て直して欲しい」という自分の思いを博士にしっかり託されたのだ。中佐の真剣な期待を裏切ることはできない。博士は遺言をしっかりと胸に抱き律儀にも選挙に出ることにしたのだという。

昨年12月の都知事選の最終日のことを思い出していただきたい。博士は遺言を律儀に守り、大雪の中で、がんを公表することなくハチ公前で最終期限の夜八時まで演説をし、選挙を全うされたのだ。

最初に選挙にでると決意したとき、奥様を始め誰もが反対したという。その中で唯一諸手をあげて賛成してくれたのが亡きお母様だった。お母様は黄色いドクター・中松Tシャツを着込み、黄色い旗を振って選挙戦の最前線に立たれたそうだ。


――お母様はどんな方だったのですか?

私より頭がよく、頭脳明晰、容姿端麗のとても素敵な人でした。

普通の子供達がお砂遊びや、積み木、トンボ釣りに興じているのに、博士はお母様から3才から物理、国語、英語、歴史、地理とありとあらゆる学問の手ほどきを受けたという。

「物理では熱力学の法則という学者でも難解高度な理論を3歳にして母から教わったのです。大学の講義のようでもなく、机を挟んで手とり足とりでもなく、母と歩く道や公園で母は上手に学びのテーマをすくいとって私に与えてくれました。母といる時間はいつも学びの時となるチャンスに溢れていました」

自分の耳で聞き、目で見て、手で触れながら、五感すべてで捉えたものが博士の頭脳に吸収されていく。博士はこれに応え5歳で最初の発明をする。模型飛行機の自動重心安定装置だ。

以降博士はフロッピーディスク、灯油ポンプ等数多くの発明品を生み出す。現在までの発明品は3500件にのぼり、エジソンの1093件を抜いて世界第1位。

そんな博士にいつも慈愛に満ちた穏やかな笑顔で愛情を注がれ続けたお母様。博士はお母様の石碑に「聖母」と刻ませたそうだ。

「あなたはもっと伸びる、超並です、ガンガンやりなさい。いつでも見守っていますよ」
お母様から博士への遺言だ。

お母様はきっと余命を宣告されてもガンガン目標に向かって突き進む、輝いている博士の姿勢を嬉しそうに見守っておられるはずだ。日本だけでなく、世界中に、あなたの闘病を応援している方たちもたくさんおられます。

Sir
ドクター・中松。どうか必ず「導管がん」の新治療薬を発明してください。そしてお元気な姿でまたお会いできますことを心から願っています。

Sairuma!では博士のお好きな曲「ラフマニノフ交響曲第二番」を流してエールを送らせていただきます。

ドクター・中松(サー中松義郎博士)
ブロフィール

全米ガン撲滅教会名誉会長、
ディズニー病院名誉ドクター、
ドクター中松創研創業社長、
国際創造学者、作家

1928年生まれ 
東京大学卒後
工学・法学・医学・科学・人文学博士
Igノーベル賞受賞
米国発明会議最高賞受賞
国際著名人名誉殿堂入り
米国国会表彰、米国名誉市民
<著書>
「ドクター・中松の発明伝説」
「バカと天才は紙」
「頭の良い子を育てる環境・運動・食事」
「お母様」 他多数
☆ドクター・中松のHPはコチラ↓

<Sairuma!(さいるま)とは>
日々の生活を彩る+末永くお届けできるようにとの願いと覚悟を込めて「彩る+ル・マン/24時間耐久レース」から「Sairuma!」と命名しました。